立山開山に関するお話(小学生用)

立山開山伝説(小学生用)音声動画はこちら:

立山開山伝説

りに出る 有頼 ありより ・・・立山開山伝説①

  大宝 たいほう 元年(701) 時の 天皇 てんのう ゆめ のなかに、 阿弥陀如来 あみだにょらい があらわれ、「いま、 越中 えっちゅう の国は 人びとの争いがたえず、人びとは苦しい生活を している。 四条 しじょう 大納言 だいなごん 佐伯 さえき 有若 ありわか を国守にして 治めさせれば、必ず、平和で ゆた かな国になるだろ う」とお告げになりました。 さっそく 天皇 てんのう は、 有若 ありわか せ、 すぐに 越中 えっちゅう におもむき、国を治めるようお命 じになりました。 有若 ありわか は、 息子 むすこ 有頼 ありより とともに、 越中 えっちゅう 保伏山 ほふせやま (今の 魚津市 うおづし 布施 ふせ のあたり)に うつ みました。 ある日、 東南の方から一羽の 白鷹 しらたか が飛んできて、 有若 ありわか の手に止まりました。 有若 ありわか は 「これはきっと何か よいことがあるにちがいない」とたいへん喜び、 大切に育てることに しました。 ある日、 有頼 ありより が父の 白鷹 しらたか をこっそり連れ出して りをしていると、 突然 とつぜん 白鷹 しらたか が遠くへ飛んで行ってしまいました。 有頼 ありより が必死に 白鷹 しらたか さがし し回っていると、 森尻 もりじり 権現 ごんげん があらわれて「東南の方を さが せ」と教え てくれました。 教えにしたがって山の方に入っていきましたが、日 が れたので岩の間に野宿することにしました。  

くま を追う 有頼 ありより ・・・立山開山伝説②

  翌朝 よくあさ 岩峅寺 いわくらじ の森に入っていくと、ひとりの老人が右手に つるぎ をさげ、左手にじゅずを持ってあらわれ、 「コラッ 若者 わかもの 、お前は だれ だ、何の用があってこの森に入り んだか」と問いかけてきました。 有頼 ありより が、 「はい、 わたし 佐伯 さえき 有頼 ありより と申します。 じつ は父が大事にしていた 白鷹 しらたか がしてしまいましたので、それを さが しにまいったの でございます」 と答えると、 老人はしだいに やさ しい顔になり 「その 白鷹 しらたか ならば、こ の先の 横江 よこえ の森にいる」と教えてくれました。 「あなたは だれ ですか」と問い返すと、 「この山の 刀尾天神 たちおてんじん である」と答えて 姿 すがた を消しました。 さてはこの山の神かと、うやうやしく頭をさげ、なおも山に入っていくと、 突然 とつぜん 大きな くま があらわれ、 有頼 ありより をめがけて おそ いかかってきました。 有頼 ありより がすばやく矢を 放つと、矢はみごとに くま むね の月の輪のところにグサッとささりました。 くま は血を点々とたらしながら、山間をぬって げていきました。 「 がしてなるものか」と、 有頼 ありより はもう 夢中 むちゅう になって、 くま のあとを追いかけて山中に入っていきました。

阿弥陀 あみだ 如来 にょらい との出会い・・・立山開山伝説③

   くま がたらした血のあとをたどっていくと、 室堂 むろどう 近くの 玉殿 たまどの の岩屋という 洞窟 どうくつ に着 きました。 「しめたぞ、この 洞窟 どうくつ くま の住みかだな」 有頼 ありより がそっと おく の様子をうかがうと、 やみ の中からパッとまぶしい光が目に んできました。 有頼 ありより おどろ いてよ く見ると、そこには くま でなく 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい 姿 すがた が見えました。 しかも、 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい むね には自分の放った矢が立っていて、 血が流れていました。 有頼 ありより はあまりのできごとに おどろ いているうちに、 つか れも出てきて ゆめ うつつの 状態 じょうたい になりました。 その ゆめ うつつのなかで ほとけ のお告げがあって 「 わたし は、けがれた世の人びとを救うために、この山に 地獄 じごく 極楽浄土 ごくらくじょうど もすっかりとりそろえて、 お前を待っていたのだ。 父の 有若 ありわか 越中 えっちゅう 国守にしたのもそのためであり、 剱岳 つるぎだけ 刀尾天神 たちおてんじん 白鷹 しらたか 姿 すがた を変えたり、 わたし くま 姿 すがた を変えて、お前をここまで みちび いてきたのだ。お前は本当に力強い たよ りになる男だ。 どうかこの 霊山 れいざん に道を開いて、 だれ でも山に登られるよ うにしてほしい」 と命ぜられました。 感激 かんげき した 有頼 ありより は、いったん下山して、 慈朝上人 じちょうしょうにん というえらいお ぼう さんから教えを受けて そう となり、 慈興 じこう と名のりました。 そして立山を開き、 立山 大権現 ごんげん の大宮などを建て、立山 信仰 しんこう を広めたといわれています。
(この開山伝説は、 江戸時代 えどじだい の 「 和漢三才図会 わかんさんさいずえ 」の中の 記述 きじゅつ をもとにしています。)



成人 儀礼 ぎれい としての立山登山

(1) 大人になることは、 生まれかわること

 子どもがすこやかに成長することは、 昔も今も変わらぬ親の願いです。 その昔、 子どもの成長は、 親だけでなく、 地域 ちいき 社会にとっても最大の関心事でした。 地域 ちいき 社会を 維持 いじ していくためには、 若者 わかもの の働きが必要だったからです。 そのため、それぞれの 地域 ちいき で、 若者 わかもの 一人前 ひとり になったと 確認 かくにん できるような 儀式 ぎしき 、 すなわち成人式を 工夫 くふう してきました。 昔の親にとっては、 成人式を無事終えることが大きな願いでした。 一方、昔の人は、 赤ちゃんが母の体内にこもって力をたくわえてから生まれてくる ように、 大人 おとな になるときも、 神霊 しんれい が宿る場所でしばらくこもって、 霊魂 れいこん をたくましい ものに生まれかわらせることが必要だと考えていました。

(2) 登山の 意義 いぎ

古くから山は神 れい が宿り、 人間の 霊魂 れいこん 再生 さいせい させるにふさわしい場所だと考えられ てきました。 大人 おとな になるための試練として 若者 わかもの に登山をさせる風習は、 全国にありま した。 特に、 修験道 しゅげんどう 修行 しゅぎょう 場となってきた 霊山 れいざん さか んに行われてきまた。 例えば、 富山 とやま の立山をはじめ、青森の岩木山、山形の月山・羽黒山・ 湯殿山 ゆどのさん 、石川の白山、 奈良 なら 大峯山 おおみねさん 、 四国の 石鎚山 いしづちやま などが知られています。 これらの れい 山に登る本来の目的は、山へ登るというよりも、山へ入ってこもり、 山の 霊気 れいき れることでした。 修験道 しゅげんどう で は山にこもって 修行 しゅぎょう することを重んじていますが、これは以前から民間で行われてい た 若者 わかもの の山入りの風習を取り入れたものだと考える学者もいます。 若者 わかもの の山入りの風習は、古くからの 山岳 さんがく 信仰 しんこう と結びついたものだったのでしょう。 ところで、 山では、どんなところがこもる場所として 最適 さいてき と考えられたのでしょうか。 立山開山 縁起 えんぎ では、 「 玉殿 ぎょくでん の岩屋」で くま 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい に変身しますが、このことは 「 玉殿 ぎょくでん の岩屋」 が 神霊 しんれい 再生 さいせい する 聖地 せいち だと考えられていたということです。 慈興上人 じこうじょうにん は、 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい のお告げを聞いた後、 ここで 修行 しゅぎょう したといわれています。 石窟 せっくつ は、単に 雨露 あめつゆ をしのげるだけでなく、 せい なる力を得られる 場所だったのです。

(3) 男子成人 儀礼 ぎれい としての立山登山

かつて、 富山 とやま では県東部を中心として、 若者 わかもの は、 早くは15 さい から、 おそくとも18 さい までに立山まいりをすべきだといわれていました。 そういう風習がいつごろから始ま ったのかはっきりしません。 しかし、 江戸時代 えどじだい 初期に、 芦峅寺 あしくらじ で、 立山開山伝説の あるじ ったのかはっきりしません。しかし、 江戸時代 えどじだい 初期に、 芦峅寺 あしくらじ で、立山開山伝説の主人公が、 国司 佐伯 さえき 有若 ありわか から、 そのむすこ16 さい 有頼 ありより に変わったのは、 そのころすでに男子が16 さい になると立山に登る 習慣 しゅうかん があって、その 習慣 しゅうかん を取りいれたからだろう、と考える学者もいます。 明治の 廃仏毀釈 はいぶつきしゃく ( 仏教 ぶっきょう に対する 迫害 はくがい 運動)で立山 信仰 しんこう 打撃 だげき を受けたのに対して、 成人 儀礼 ぎれい としての 立山登山の風習は 仏教的 ぶっきょうてき 色彩 しきさい がなかったので、明治 以降 いこう にわかに 脚光 きゃっこう をあびるようになったといわれて います。 富山 とやま 県史や各市町村史の記録をみると、明治・大正期にも身を清め、 新しい 白装束 しろしょうぞく に身を包んで立山に登っている例が多くみられます。 このことから、 明治・大正になっても、 山を せい なる場所と かんがえ えていたことがわかります。 また、 無事に帰ると、 氏神 うじがみ にお礼まいりし、 家族親類うちそろってお祝い をしていることから、 立山登山が一大行事だったこ とがわかります。


(4) そして今

かつて、 富山 とやま では県東部を中心として、 若者 わかもの は、 早くは15 さい から、 おそくとも18 さい までに立山まいりをすべきだといわれていました。 そういう風習がいつごろから始ま ったのかはっきりしません。 しかし、 江戸時代 えどじだい 初期に、 芦峅寺 あしくらじ で、 立今では、 修行 しゅぎょう 成人 なると 儀礼 ぎれい として立山 登山をするということはほとんどなく なりました。 しかしその代わり、 学校 行事として立山登山を行うところが多 くなりました。 しかも、 交通の便がよくなったこともあって、しだいに 低年齢 ていねんれいか 化が進み、 昭和40年代には、 富山県 とやまけん の半数以上の小学校で行われるように なりました。 その後一時期、 危険 きけん をともない、天候で予定がくるいやすいと して 減少 げんしょう していきましたが、 最近また 増加 ぞうか しつつあるそうです。 自然体験の良さが見 直されてきたようです。 昔の人は、 かみなり 突風 とっぷう などの自然 現象 げんしょう 妖怪 ようかい のしわざと考えたり、火山活動でできた風 景を 地獄 じごく と見たてたり、 ブロッケン 現象 げんしょう 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい 来迎 らいごう と思ったりしたことからも わかるように、 山で体験する自然 現象 げんしょう 神仏 しんぶつ の働きを感じとって きました。 今、 そのように感じる人はほとんどいないでしょう。 しかし感じ方は変わっても、山は今も、人びとにとって新しい発 見の場であり、 自分を成長させる場となっているのでしょう。 子どもたちに立山登山をすすめるときに、 必ずといってもよいくらい出てくるのが 佐伯 さえき 有頼 ありより の話です。 少年 有頼 たのみ の立山開山伝説は 越中 えっちゅう 少年の ゆめ をはぐくみ、 また ぎゃく に少年たちの ゆめ が有 たのみ 伝説を育てあげてきました。 平成13年(2001) 呉羽 くれは 山山 いただき に、少年の 有頼 ありより ぞう が建ちました。 有頼 ありより の立山を指さす 姿 すがた には、数多くの先人の思いが められて います。

立山開山に関するお話

1300年前に開山された開山伝説と立山 信仰 しんこう の話

1 はじめに

日本の名山として世界に名高い、 わが越中の立山へは、 だれが初めて登ったで しょうか
かの高い険しい山の上まで路追をつけて、頂上に社を造って帰ったのは、 そもそも何という人でしょうか。そのお話をこれからいたします。

2 佐伯有若

昔々のその昔、今から約1300年 あま り前の昔、 今の立山町が、 常願寺川 じょうがんじがわ 氾濫 はんらん の繰り返しで、 しで、 石ころと雑木の生いしげった荒れ野原だったころのことです。
人々は平で水の便のよい上地を選んで住みつき、 細々と田畑を耕して、 苦しい生活を送っていました。 時の 天皇 てんのう 文武 もんむ 天皇は、ある夜、不思議な夢をご覧になりました。 その夢には、 阿弥陀 あみだ 如来 にょらい 様が あらわ れて、 天皇 てんのう に言われるには、「今、 越中 えっちゅう の国は、 人々の争いが えず、苦しい 生活をしている。 近江 おうみ の国( 現在 げんざい 滋賀県 しがけん )におる 四条 しじょう 大納言 だいなごん 佐伯 さえき 有若 ありわか を国守にして治めさせれば、必ず、平和で ゆた かな国になるだろう」 ということでしたから、 さっそく 天皇 てんのう は、 有若 ありわか しになり、すぐに、 越中 えっちゅう 国にお もむき、国を治めるように命じられました そこで 佐伯 さえき 有若 ありわか は、一族を引き連れ、 近江 おうみ の国の 志賀 しが 現在 げんざい 志賀 しが 県)を出発し、 越中 えっちゅう の国へ向かいました。 何日も何日も歩いて、 ようやく 倶利伽羅 くりから とうげ までやってきました 「やれやれ、 ここを えれ ば 越中 こしなか だ」 と ほっと一息ついていると どこからか、 一羽の白い たか がまいおりて、 打 わか くぎ にとまりました。 有若 ありわか は、 「これは、 きっと何かよいことがある前ぶれにちがいない」 と大変喜び、 「白羽の たか 」と名付け、 大切に育てることにしました。 〈 倶利伽羅 くりから とうげ 有若 ありわか は、 下新川郡 しもにいかわぐん 布施川 ふせかわ のほとりにある犬山( 現在 げんざい ちゅう 部市犬山?)に館( しろ : 役所) を建て、 一生懸命 いっしょうけんめい に国を治めました。 そして、 仕事のあい間には、 この白 い たか を連れて、野山へ りに出かけることを何よりの楽しみにしていました。 (東 布施 ふせ 黒部市 くろべし 、西 布施 ふせ : 魚津市 うおづし ) 《 黒部市 くろべし 大山の立山神社辺りか?〉

3 佐伯有頼の誕生

有若 ありわか の努力によって、 越中 えっちゅう の国は以前のような争い事はなくなり、 人々は安心 して農作業に せい を出すようになり、 しだいに平和で ゆた かな国になっていきました。 しかし、 有若 ありわか の心には、 いつも満たされない大きな なや みがありました。 それは、 後継 あとつ ぎの 子供 こども がいないことでした。 ある夜、 ぬの 若夫婦 わかふうふ 枕元 まくらもと に、 立山の大 なんじ の神様が あらわ れ、 「お前たちに、 男の子をさずけよう。 有 たのみ と名付け、 大下に育てよ」 とお告げになりました。 それから一年後、 お告げの通り丸丸とした男の子が生まれました。もちろん、 国中の人たちも 大喜 おおよろこび ぴで、 神の子として大事に打てられました。 有 たのみ は、 みんなの期待通り、 すくすくと成長し、 たくましい少年になっていき ました。 たいそう 体質 たいしつ が強く、いつも勇ましい遊びをし、その上、父母にも まこと によく 孝行 こうこう をいたしました。 そして、 有 たのみ も、 白い たか をたいそうかわいがり、 たか と遊ぶことが大好きでした。

4 逃げた白い鷹

有頼少年が16歳になった春のことです。
有頼少年は、 父の大切にしている白い鷹を、 飼育係の家来がとめるのを振り切り、 無理やり借り受け、 喜び勇んで、 一人で鷹狩りに出かけました。 した。《 高峰山 たかみねやま の方面》 有頼少年は、 鷹のえさを振りかざしながら大声で呼び、 舞い降りてくるのを待ちました。 しかし、 いくら経っても鷹は戻ってきません。 そのうちに姿が見えなくなってしまいました。 さあ大変です。 父の大事な白い鷹を逃がした有頼少年は、 城に帰ると父にしかられるに決まっています。 それとて鷹と同じにどこかへ逃げて行くわけにもまいりませんから、 有頼少年は泣き泣き城に帰りまして、 「白い鷹は、 獲物を捕らずに、 どこかに逃げてしまいました。 私が油断をしていたせいですからどうかかんにんしてください」 と、 色々お詫びをいたしましたが、 父はたいそう腹を立てて、 「あんな立派な鷹は、 二度と私の手に入ることがないから、 お前はどうあってもあの鷹を捜してきなさい。 そうしなければ、 城に帰ってはならぬ」 と、 厳しくしかりました。

5 白い鷹を捜して

お父様のお腹立ちも無理はない。 どうかして、 再び白い鷹を捕まえてこようと心に決め、 「では、 お父さん、 どうあっても捕まえて帰りますから、 しばらくの間、 おいとまをください」 と言いまして、さっそく白い鷹を捜しに出 かけました。
それから有頼少年は、鷹の逃げた方へと、 野といわず、林といわず 「まいごのまいごの白い鷹やあい、おいし いえさはここにある。早く早く飛んでこい」 とさけびながら捜しました。けれども、白 い鷹は見つかりません。とうとう日が暮れ て、辺りは真っ暗になりました。
疲れ切った有頼少年は、岩を枕にし、衣 を敷いて眠ってしまいました。《一夜泊: とまりしん立山町一夜泊( 泊新 とまりしん )》
夜が明けました。有頼少年は、また捜し始めました。常願寺川までやってきました。
川に沿って、ごろごろした岩石を踏み越え、山の方へどんどん進んでいきました。
岩峅寺 いわくらじ というところまで来ますと、そこに大きな谷があって、向こうの断崖に 生えている松の大木のこずえに泊まっている白い鷹を見つけました。《常願寺川》
《鷹泊:大山町上滝(大川寺) の南》《立山町  岩峅寺 いわくらじ

6 大熊を追って

「あっ、いたぞ」
やっと見つけた白い鷹のそばへ大喜びで駆け寄り、腰からうまいえさを取り出し、 「鷹こおい鷹来い、おいしいおいしいえさをやろう と何度も呼びますと、白い鷹 はじっと有頼少年の方を見て おりましたが、たちまち飛ん できて、有頼の手の上に泊ま した。
「おっ、よく来てくれた。私 はどんなにお前を捜したろ う。お父様も心配しておられ る。よく来てくれた」 と、有頼はしきりにうれしがって、白 い羽をなでたり、頭をなでたりします と、應は羽ばたきながら、これもまこ とにうれしそうにしました。
ところが、運の悪いことに、ちょう どそのとき、かたわらの草原にガサガ サと音がしたかと思うと、 「ガオーッツ!」 と、大きな黒い熊が飛び出して来まし た。驚いた應は、羽ばたきをしながら、 またまた空高く舞い上がり、どこかへ 逃げてしまいました。
有頼のそのときの悔しさは、どんな でありましたでしょうか。 「おのれ、許しておくものか!」 と、持っていた弓に、素早く矢をつがえ、大きく引き絞り、黒熊の胸元をめがけ て放ちますと、ねらい違わず、矢は黒熊の左の胸にビシッと深く突き刺さりまし た。
ドッシーン。黒熊は一度は倒れたものの、さすが大熊、すぐに跳ね起き、血を 流しながら山奥めがけて逃げ出してしまいました。《横矢:立山町横江》 「逃がしてなるものか」
有頼は、熊の血のあとをたどり、険しい岩をよじ登りながら追いかけましたが、 なにぶん、けもののことですから、見る間に姿が見えなくなりました。《血懸: 立山町千垣》 「このまま逃がしてなるものか」 と、さらに追いかけていきますと、賛の生い昆った原っぱにでました。《立山町 芦蔵寺》
有頼は、どんどん進んでいきました。どれだけ進んだのでしょう。あたりはま すます険しくなってきました。 「ああ、これは、どうすればいいのだろう」
目の前は、深い深い谷で、向こう側には行けそうにありません。 思案にくれていると、どこからともなく数十匹のサルが集まり、藤のつるを持 ち寄って、みるみるうちに架け橋を造り、またたく間に姿を消してしまいました。
あっけにとられて成り行きを見ていた有頼は、気を取り直し、その橋を渡り、 奥山へ進もうとしました。
すると今度は、金色の大シカが現れ、前に立ちはだかり、行く手をさえぎりました。 「じゃま立てするな」
気の強い有頼は、刀を抜いてその大シカに立ち向かい、うち倒そうとしました が、大シカの気に当てられ、その場に倒れてしまいました。《立山町藤橋》

7 合掌念仏

しばらくして息を吹き返した有頼の体は、寒さと疲れと空腹で、思うように動 きませんでした。
辺りにはまだ雪が残っていましたが、岩かげに芽生えている青草をとって食べ ると、不思議や、体中に力がみなぎり元気を取り戻しました。《草生坂:藤橋か ら千寿ヶ原あたりの坂?》 「にくい熊め、追いつめずにおくものか」
有頼は立ち上がり、固い雪渓を踏みしめ、岩壁を伝い、熊の血のあとをたどっ て山坂を登りました。
歯をくいしばり、いくつかの坂を越えたとき、にわかに辺りが真っ暗になり、 稲妻がひらめき雷鳴がとどろき、突然うなり声をあげた雷獣が暗闇から襲いか かってきました。
すかさず、有頼は、刀を抜いて切りつけると、たしかに手応えがあり、急に周 りが明るくなり雷鳴もおさまりました。《断裁坂:美女平から滝見台の間にある坂》
有頼はさらに、険しい山坂をはうように登っていきましたが、ついに力がつき、 動けなくなりました。
その時です。どこからともなく、大勢の仏様の合掌念仏を唱えている声が聞こ えてきました。
それをじっと聞いていると、疲れもなおり、その険しい坂を、やすやすと登り 詰めることができました。《仮安坂:断裁坂の上の方の坂》
登り切った坂の眼前には、雲上から落下する荘厳な大滝(称名滝)が光り輝 いていました。
天から落ちてくるその滝の神々しさに、思わず地にひれ伏して礼拝(伏拝)し ました。《称名滝と滝見台辺り》
命がけの、苦しい、そして恐ろしい出来事が次々に起こり、さすがの有頼も、 この先またどんなことが起きるのか、不安になってきました。しかし、 ここで引き返してなるものか。なんとし ても大熊を追いつめなくては」
と心に決め、またもや大きな岩肌をはい上 がり、急な雪渓を踏みしめ、立ちふさがる、 はい松の枝をおしはらいながら進み、いつ のまにか立山の頂上間近、雲上の高原に立っていました。《室堂辺りか?》

8 如来様

寒さと空腹のため、今にも倒れそうにな りましたが、くちびるをかみしめ、雪の上 に点々と残っている血の跡をたどり、崖の 中腹にぽっかりあいた洞穴にたどり着きました。《玉殿の窟(岩屋)》
「しめた。この洞穴にこそ、大事な鷹を逃がした、にくき大熊がいる。今度こそ、 必ず射止めてやるぞ」
弓に矢をつがえ、一歩一歩と、注意深く洞穴に踏み込みますと、これは驚いた! 有頼の目に入ったのは、逃げ込んだはずの大熊ではなく、さん然と黄金色に光 り輝く、美しい阿弥陀如来様のお姿でした。しかも、その仏様の左胸には大熊 を射たあの矢が深く突き刺さっていましたが、にこにこ笑っておいでになるでは ありませんか。
あまりのことにびっくり仰天しまして、 「熊とばかり思って追いつめたのは仏様でしたか。本当に悪いことをしました」
と、その場にひれ伏しました。
そして、その夜は、その洞穴で通夜をしてお詫びをすることにしました。
すると、有頼の耳もとに、仏様はやさしくお話になりまし た。
「私は、阿弥陀如来である。私は、この立山に地獄を造り、極楽も 造りました。立山に登れば、人々はいろいろな悩みから救われます。とても尊い 山なのです。けれども、立山はまだ誰にも知られていません。登る道もありません。 多くの迷っている人々を救うため、姿をかえて、白鷹になり、大熊になり、時に はサルや大シカ、そして雷獣となり、そなたをここまで呼び寄せたのです。そな たは、本当に力強い頼りになる男です。どうかこの立山を開いて、国中の人がお 参りできるように、一生懸命つとめてください。それが大汝の神の子であるそな たのつとめなのです。」
仏様のありがたいお言葉に、強く心をうたれた少年有頼は、さっそく城に帰り、 父にこの話をしました。
すると父は、有頼の勇気に感心して、白鷹を逃がしたことを許したばかりか、 有頼にいっそう修行を積ませました。
有頼は弓矢を捨て、髪を剃って仏門に入りました。そして、『薬勢上人』とい うえらいお坊さんに教えを受け、名を『慈興』と改め、信仰の道に精進しました。 そして仏様との約束通りに、草木をはらい、岩石を取り除き、険しい坂に道を つけ、その頂上に社を建てました。
さらには、ふもとの芦倉寺や岩倉寺にお寺を建て、信仰としての立山を開くた めに、その一生をささげました。

9 玉殿の窟(岩屋)

これが立山を開いたといわれるお話です。 大熊が逃げ込んだという洞穴は、玉殿の窟(岩屋)といって、立山の地獄谷のあるそばに残っています。 そして、芦絣寺にある雄山神社には、『慈興上人』のお像とお墓が今も残っています。 めでたし! めでたし!

【参考文献等】

立山開山縁起 類緊既験抄 立山町の歴史物語 大井冷光集等開山 等

【立山の開山にまつわる資料等】

◎立山の開山は、今から約 1300 年前?
〇1907 年、測量のために勉岳に登った柴崎芳太郎氏一行が、山頂で杖の先に付 どうしゃくじょうとうける銅製品(銅錫杖頭)と鉄製品(剣)を発見する。
〇それまでは、勉岳は誰も登ったことのない山と考えられていた。
〇1893 年、河合磯太郎氏によって、大日岳頂上付近にある修行の行われた洞窟 どうしゃくじょうとうどうしゃくじょうとうから銅錫杖頭が発見されているが、勉岳の銅錫杖頭とほぼ同じころのものと考えられている。
〇銅錫杖頭は奈良時代終わりから平安時代初め(llOO~1200 年前)に作られた ものと考えられる。
〇全国の高い山には、奈良時代から平安時代初めにかけて開かれたものが多い。
〇比叡山天台宗の僧、康済が9世紀後半に「越中立山」を開いたという記録がある。
〇京都・随心院に残る延喜5 年(905 年) 7 月ll 日の記録によれば、越中国の 長官である佐伯有若が、自筆で名前を残している。
「越中守従五位下佐伯宿祢有若」
『常設展示観覧の手引き』富山県立山博物館
◎立山を開いたのは有頼? 有若? それとも狩人?
(狩人伝承が国守佐伯有若の伝説に変わっていった?)
〇『伊呂波字類抄』では、「立山を開いたのは越中守佐伯宿祢有若であった」と いう。しかし、地元に語り伝えられてきた『立山開山縁起』では、「有若の息 子である有頼が開山した」と伝えている。
『立山黒部物語』立山黒部貰光株式会社
〇『類しゅう既験抄』 によれば、「狩人が立山で熊をうち、熊に矢を射立てた。熊は 矢を立てたまま死んだ。その熊をよく見ると、金色に輝く阿弥陀如来であった・・・
〇霊山と熊との深い関係が全国にある。山岳信仰に猟師が関与している。
〇熊野権現の縁起では、「猟師が熊を射、血痕をつけていって、熊と思ったのが 阿弥陀如来であったことを驚き知った・・・」
〇羽黒山の縁起では、猟師が手負い熊を追っていく場面がある。
〇金剛堂山の開山伝説では、役ノ行者が熊に案内されて登頂する。
『立山連峰』文部省登山研修所

【立山についての豆知識】

◎“立山”の山名と語義・呼称等について
・タチヤマ・・・そびえ立ちたる山
・顕ち山・・・・神の降り立つ山
・大刀山・・・・刀姻のように鋭い山
・多知夜麻・・・万葉集で詠まれる
?立山

◎‘‘立山”という山はあるの?

・狭義・・・雄山(雄山神社峰本社がある) ・一般的・・・室堂から東に見える台形の山塊 ・(中義)・・・ (左端)富士ノ折立、( 中央)大汝山、(右端)雄山の総称 ・広義・・・雄山を中心とした周辺山域、姻岳・立山などの山並み ?最広義・・・北アルプス北部全体 ◎「立山三山」とは? ・別山、中義の立山(富士ノ折立、閃寄闘、雄山)、浄土山をあわせた名称

◆ “雄山”

・立山の主峰、3003m
いざなぎのみことたぢからおのみことまつ
・雄山神社峰本社がある。伊拝諾尊と手力男命を祀る。
?山の姿を仏の体になぞらえて、頂上を烏琵ノ峰ともいう。
・明治維新の神仏分離後、立山権現(立山の神)は復古して雄山神社に、峰 名も雄山となる。
・神山を敬って御山とあがめたので、雄山という呼称にも結びつきやすかっ たのであろう。

◆“大汝山”

・中義の立山の中央峰、3015m、富山県の最高地点 ・大己貴神(別名:大国主命)が祀られていたことに由来する。 ?立山曼陀羅図には祠が描かれているが、現在信仰をうかがわせるものはない。

◆“富士ノ降立”

・中義の立山の北峰、2999m ・富士権現を祀ったことに由来。富士ノ折戸 富士ノ折立岩とも記した。 ・立山曼荼羅図では、雄山、大汝山、別山の山並みから奥まったところに富士山型に描かれる。

◆“別山”

・2880m ・帝釈天を祀るので、帝釈岳の別名があった。 ・立山曼荼羅図では、雄山、大汝山、浄土山と並ぶ重要なピークである。

◆“浄土山”

・2831m ・阿弥陀堂や、天日鷲命と長白羽命を祀った祠の跡がある。 ・高山植物やハイマツに覆われる山上の姿は立山三山随一。雷鳥の生息数も多い。 ・このような環境を阿弥陀の浄土になぞられたことに由来する。
       





ページトップへ