1300年前に開山された開山伝説と立山
信仰
の話
1 はじめに
日本の名山として世界に名高い、 わが越中の立山へは、 だれが初めて登ったで しょうか
かの高い険しい山の上まで路追をつけて、頂上に社を造って帰ったのは、 そもそも何という人でしょうか。そのお話をこれからいたします。
2 佐伯有若
昔々のその昔、今から約1300年
余
り前の昔、 今の立山町が、
常願寺川
の
氾濫
の繰り返しで、
しで、 石ころと雑木の生いしげった荒れ野原だったころのことです。
人々は平で水の便のよい上地を選んで住みつき、 細々と田畑を耕して、 苦しい生活を送っていました。
時の
天皇
、
文武
天皇は、ある夜、不思議な夢をご覧になりました。 その夢には、
阿弥陀
如来
様が
現
れて、
天皇
に言われるには、「今、
越中
の国は、 人々の争いが
絶
えず、苦しい 生活をしている。
近江
の国(
現在
の
滋賀県
)におる
四条
大納言
の
佐伯
有若
を国守にして治めさせれば、必ず、平和で
豊
かな国になるだろう」
ということでしたから、 さっそく
天皇
は、
有若
を
呼
び
出
しになり、すぐに、
越中
国にお
もむき、国を治めるように命じられました
そこで
佐伯
有若
は、一族を引き連れ、
近江
の国の
志賀
(
現在
の
志賀
県)を出発し、
越中
の国へ向かいました。
何日も何日も歩いて、 ようやく
倶利伽羅
峠
までやってきました
「やれやれ、 ここを
越
えれ ば
越中
だ」
と ほっと一息ついていると どこからか、 一羽の白い
鷹
がまいおりて、 打
若
の
訂
にとまりました。
有若
は、 「これは、 きっと何かよいことがある前ぶれにちがいない」
と大変喜び、 「白羽の
鷹
」と名付け、 大切に育てることにしました。 〈
倶利伽羅
峠
有若
は、
下新川郡
の
布施川
のほとりにある犬山(
現在
の
忠
部市犬山?)に館(
城
:
役所) を建て、
一生懸命
に国を治めました。 そして、 仕事のあい間には、 この白
い
鷹
を連れて、野山へ
狩
りに出かけることを何よりの楽しみにしていました。 (東
布施
:
黒部市
、西
布施
:
魚津市
) 《
黒部市
大山の立山神社辺りか?〉
3 佐伯有頼の誕生
有若
の努力によって、
越中
の国は以前のような争い事はなくなり、 人々は安心
して農作業に
精
を出すようになり、 しだいに平和で
豊
かな国になっていきました。
しかし、
有若
の心には、 いつも満たされない大きな
悩
みがありました。 それは、
後継
ぎの
子供
がいないことでした。
ある夜、
布
若夫婦
の
枕元
に、 立山の大
汝
の神様が
現
れ、
「お前たちに、 男の子をさずけよう。 有
頼
と名付け、 大下に育てよ」
とお告げになりました。
それから一年後、 お告げの通り丸丸とした男の子が生まれました。もちろん、 国中の人たちも
大喜
ぴで、 神の子として大事に打てられました。
有
頼
は、 みんなの期待通り、 すくすくと成長し、 たくましい少年になっていき ました。
たいそう
体質
が強く、いつも勇ましい遊びをし、その上、父母にも
誠
によく
孝行
をいたしました。 そして、 有
頼
も、 白い
鷹
をたいそうかわいがり、
鷹
と遊ぶことが大好きでした。
4 逃げた白い鷹
有頼少年が16歳になった春のことです。
有頼少年は、 父の大切にしている白い鷹を、 飼育係の家来がとめるのを振り切り、 無理やり借り受け、 喜び勇んで、 一人で鷹狩りに出かけました。
した。《
高峰山
の方面》
有頼少年は、 鷹のえさを振りかざしながら大声で呼び、 舞い降りてくるのを待ちました。
しかし、 いくら経っても鷹は戻ってきません。 そのうちに姿が見えなくなってしまいました。
さあ大変です。 父の大事な白い鷹を逃がした有頼少年は、 城に帰ると父にしかられるに決まっています。 それとて鷹と同じにどこかへ逃げて行くわけにもまいりませんから、 有頼少年は泣き泣き城に帰りまして、
「白い鷹は、 獲物を捕らずに、 どこかに逃げてしまいました。 私が油断をしていたせいですからどうかかんにんしてください」
と、 色々お詫びをいたしましたが、 父はたいそう腹を立てて、
「あんな立派な鷹は、 二度と私の手に入ることがないから、 お前はどうあってもあの鷹を捜してきなさい。 そうしなければ、 城に帰ってはならぬ」
と、 厳しくしかりました。
5 白い鷹を捜して
お父様のお腹立ちも無理はない。 どうかして、 再び白い鷹を捕まえてこようと心に決め、
「では、 お父さん、 どうあっても捕まえて帰りますから、 しばらくの間、 おいとまをください」
と言いまして、さっそく白い鷹を捜しに出
かけました。
それから有頼少年は、鷹の逃げた方へと、
野といわず、林といわず
「まいごのまいごの白い鷹やあい、おいし
いえさはここにある。早く早く飛んでこい」
とさけびながら捜しました。けれども、白
い鷹は見つかりません。とうとう日が暮れ
て、辺りは真っ暗になりました。
疲れ切った有頼少年は、岩を枕にし、衣
を敷いて眠ってしまいました。《一夜泊:
とまりしん立山町一夜泊(
泊新
)》
夜が明けました。有頼少年は、また捜し始めました。常願寺川までやってきました。
川に沿って、ごろごろした岩石を踏み越え、山の方へどんどん進んでいきました。
岩峅寺
というところまで来ますと、そこに大きな谷があって、向こうの断崖に
生えている松の大木のこずえに泊まっている白い鷹を見つけました。《常願寺川》
《鷹泊:大山町上滝(大川寺) の南》《立山町
岩峅寺
》
6 大熊を追って
「あっ、いたぞ」
やっと見つけた白い鷹のそばへ大喜びで駆け寄り、腰からうまいえさを取り出し、
「鷹こおい鷹来い、おいしいおいしいえさをやろう
と何度も呼びますと、白い鷹
はじっと有頼少年の方を見て
おりましたが、たちまち飛ん
できて、有頼の手の上に泊ま
した。
「おっ、よく来てくれた。私
はどんなにお前を捜したろ
う。お父様も心配しておられ
る。よく来てくれた」
と、有頼はしきりにうれしがって、白
い羽をなでたり、頭をなでたりします
と、應は羽ばたきながら、これもまこ
とにうれしそうにしました。
ところが、運の悪いことに、ちょう
どそのとき、かたわらの草原にガサガ
サと音がしたかと思うと、
「ガオーッツ!」
と、大きな黒い熊が飛び出して来まし
た。驚いた應は、羽ばたきをしながら、
またまた空高く舞い上がり、どこかへ
逃げてしまいました。
有頼のそのときの悔しさは、どんな
でありましたでしょうか。
「おのれ、許しておくものか!」
と、持っていた弓に、素早く矢をつがえ、大きく引き絞り、黒熊の胸元をめがけ
て放ちますと、ねらい違わず、矢は黒熊の左の胸にビシッと深く突き刺さりまし
た。
ドッシーン。黒熊は一度は倒れたものの、さすが大熊、すぐに跳ね起き、血を
流しながら山奥めがけて逃げ出してしまいました。《横矢:立山町横江》
「逃がしてなるものか」
有頼は、熊の血のあとをたどり、険しい岩をよじ登りながら追いかけましたが、
なにぶん、けもののことですから、見る間に姿が見えなくなりました。《血懸:
立山町千垣》
「このまま逃がしてなるものか」
と、さらに追いかけていきますと、賛の生い昆った原っぱにでました。《立山町
芦蔵寺》
有頼は、どんどん進んでいきました。どれだけ進んだのでしょう。あたりはま
すます険しくなってきました。
「ああ、これは、どうすればいいのだろう」
目の前は、深い深い谷で、向こう側には行けそうにありません。
思案にくれていると、どこからともなく数十匹のサルが集まり、藤のつるを持
ち寄って、みるみるうちに架け橋を造り、またたく間に姿を消してしまいました。
あっけにとられて成り行きを見ていた有頼は、気を取り直し、その橋を渡り、
奥山へ進もうとしました。
すると今度は、金色の大シカが現れ、前に立ちはだかり、行く手をさえぎりました。
「じゃま立てするな」
気の強い有頼は、刀を抜いてその大シカに立ち向かい、うち倒そうとしました
が、大シカの気に当てられ、その場に倒れてしまいました。《立山町藤橋》
7 合掌念仏
しばらくして息を吹き返した有頼の体は、寒さと疲れと空腹で、思うように動
きませんでした。
辺りにはまだ雪が残っていましたが、岩かげに芽生えている青草をとって食べ
ると、不思議や、体中に力がみなぎり元気を取り戻しました。《草生坂:藤橋か
ら千寿ヶ原あたりの坂?》
「にくい熊め、追いつめずにおくものか」
有頼は立ち上がり、固い雪渓を踏みしめ、岩壁を伝い、熊の血のあとをたどっ
て山坂を登りました。
歯をくいしばり、いくつかの坂を越えたとき、にわかに辺りが真っ暗になり、
稲妻がひらめき雷鳴がとどろき、突然うなり声をあげた雷獣が暗闇から襲いか
かってきました。
すかさず、有頼は、刀を抜いて切りつけると、たしかに手応えがあり、急に周
りが明るくなり雷鳴もおさまりました。《断裁坂:美女平から滝見台の間にある坂》
有頼はさらに、険しい山坂をはうように登っていきましたが、ついに力がつき、
動けなくなりました。
その時です。どこからともなく、大勢の仏様の合掌念仏を唱えている声が聞こ
えてきました。
それをじっと聞いていると、疲れもなおり、その険しい坂を、やすやすと登り
詰めることができました。《仮安坂:断裁坂の上の方の坂》
登り切った坂の眼前には、雲上から落下する荘厳な大滝(称名滝)が光り輝
いていました。
天から落ちてくるその滝の神々しさに、思わず地にひれ伏して礼拝(伏拝)し
ました。《称名滝と滝見台辺り》
命がけの、苦しい、そして恐ろしい出来事が次々に起こり、さすがの有頼も、
この先またどんなことが起きるのか、不安になってきました。しかし、
ここで引き返してなるものか。なんとし
ても大熊を追いつめなくては」
と心に決め、またもや大きな岩肌をはい上
がり、急な雪渓を踏みしめ、立ちふさがる、
はい松の枝をおしはらいながら進み、いつ
のまにか立山の頂上間近、雲上の高原に立っていました。《室堂辺りか?》
8 如来様
寒さと空腹のため、今にも倒れそうにな
りましたが、くちびるをかみしめ、雪の上
に点々と残っている血の跡をたどり、崖の
中腹にぽっかりあいた洞穴にたどり着きました。《玉殿の窟(岩屋)》
「しめた。この洞穴にこそ、大事な鷹を逃がした、にくき大熊がいる。今度こそ、
必ず射止めてやるぞ」
弓に矢をつがえ、一歩一歩と、注意深く洞穴に踏み込みますと、これは驚いた!
有頼の目に入ったのは、逃げ込んだはずの大熊ではなく、さん然と黄金色に光
り輝く、美しい阿弥陀如来様のお姿でした。しかも、その仏様の左胸には大熊
を射たあの矢が深く突き刺さっていましたが、にこにこ笑っておいでになるでは
ありませんか。
あまりのことにびっくり仰天しまして、
「熊とばかり思って追いつめたのは仏様でしたか。本当に悪いことをしました」
と、その場にひれ伏しました。
そして、その夜は、その洞穴で通夜をしてお詫びをすることにしました。
すると、有頼の耳もとに、仏様はやさしくお話になりまし
た。
「私は、阿弥陀如来である。私は、この立山に地獄を造り、極楽も
造りました。立山に登れば、人々はいろいろな悩みから救われます。とても尊い
山なのです。けれども、立山はまだ誰にも知られていません。登る道もありません。
多くの迷っている人々を救うため、姿をかえて、白鷹になり、大熊になり、時に
はサルや大シカ、そして雷獣となり、そなたをここまで呼び寄せたのです。そな
たは、本当に力強い頼りになる男です。どうかこの立山を開いて、国中の人がお
参りできるように、一生懸命つとめてください。それが大汝の神の子であるそな
たのつとめなのです。」
仏様のありがたいお言葉に、強く心をうたれた少年有頼は、さっそく城に帰り、
父にこの話をしました。
すると父は、有頼の勇気に感心して、白鷹を逃がしたことを許したばかりか、
有頼にいっそう修行を積ませました。
有頼は弓矢を捨て、髪を剃って仏門に入りました。そして、『薬勢上人』とい
うえらいお坊さんに教えを受け、名を『慈興』と改め、信仰の道に精進しました。
そして仏様との約束通りに、草木をはらい、岩石を取り除き、険しい坂に道を
つけ、その頂上に社を建てました。
さらには、ふもとの芦倉寺や岩倉寺にお寺を建て、信仰としての立山を開くた
めに、その一生をささげました。
9 玉殿の窟(岩屋)
これが立山を開いたといわれるお話です。
大熊が逃げ込んだという洞穴は、玉殿の窟(岩屋)といって、立山の地獄谷のあるそばに残っています。
そして、芦絣寺にある雄山神社には、『慈興上人』のお像とお墓が今も残っています。
めでたし! めでたし!
立山開山縁起 類緊既験抄 立山町の歴史物語 大井冷光集等開山 等
【立山の開山にまつわる資料等】
◎立山の開山は、今から約 1300 年前?
〇1907 年、測量のために勉岳に登った柴崎芳太郎氏一行が、山頂で杖の先に付
どうしゃくじょうとうける銅製品(銅錫杖頭)と鉄製品(剣)を発見する。
〇それまでは、勉岳は誰も登ったことのない山と考えられていた。
〇1893 年、河合磯太郎氏によって、大日岳頂上付近にある修行の行われた洞窟
どうしゃくじょうとうどうしゃくじょうとうから銅錫杖頭が発見されているが、勉岳の銅錫杖頭とほぼ同じころのものと考えられている。
〇銅錫杖頭は奈良時代終わりから平安時代初め(llOO~1200 年前)に作られた
ものと考えられる。
〇全国の高い山には、奈良時代から平安時代初めにかけて開かれたものが多い。
〇比叡山天台宗の僧、康済が9世紀後半に「越中立山」を開いたという記録がある。
〇京都・随心院に残る延喜5 年(905 年) 7 月ll 日の記録によれば、越中国の
長官である佐伯有若が、自筆で名前を残している。
「越中守従五位下佐伯宿祢有若」
『常設展示観覧の手引き』富山県立山博物館
◎立山を開いたのは有頼? 有若? それとも狩人?
(狩人伝承が国守佐伯有若の伝説に変わっていった?)
〇『伊呂波字類抄』では、「立山を開いたのは越中守佐伯宿祢有若であった」と
いう。しかし、地元に語り伝えられてきた『立山開山縁起』では、「有若の息
子である有頼が開山した」と伝えている。
『立山黒部物語』立山黒部貰光株式会社
〇『類しゅう既験抄』 によれば、「狩人が立山で熊をうち、熊に矢を射立てた。熊は
矢を立てたまま死んだ。その熊をよく見ると、金色に輝く阿弥陀如来であった・・・
〇霊山と熊との深い関係が全国にある。山岳信仰に猟師が関与している。
〇熊野権現の縁起では、「猟師が熊を射、血痕をつけていって、熊と思ったのが
阿弥陀如来であったことを驚き知った・・・」
〇羽黒山の縁起では、猟師が手負い熊を追っていく場面がある。
〇金剛堂山の開山伝説では、役ノ行者が熊に案内されて登頂する。
『立山連峰』文部省登山研修所
【立山についての豆知識】
◎“立山”の山名と語義・呼称等について
・タチヤマ・・・そびえ立ちたる山
・顕ち山・・・・神の降り立つ山
・大刀山・・・・刀姻のように鋭い山
・多知夜麻・・・万葉集で詠まれる
?立山
◎‘‘立山”という山はあるの?
・狭義・・・雄山(雄山神社峰本社がある)
・一般的・・・室堂から東に見える台形の山塊
・(中義)・・・ (左端)富士ノ折立、( 中央)大汝山、(右端)雄山の総称
・広義・・・雄山を中心とした周辺山域、姻岳・立山などの山並み
?最広義・・・北アルプス北部全体
◎「立山三山」とは?
・別山、中義の立山(富士ノ折立、閃寄闘、雄山)、浄土山をあわせた名称
◆ “雄山”
・立山の主峰、3003m
いざなぎのみことたぢからおのみことまつ
・雄山神社峰本社がある。伊拝諾尊と手力男命を祀る。
?山の姿を仏の体になぞらえて、頂上を烏琵ノ峰ともいう。
・明治維新の神仏分離後、立山権現(立山の神)は復古して雄山神社に、峰
名も雄山となる。
・神山を敬って御山とあがめたので、雄山という呼称にも結びつきやすかっ
たのであろう。
◆“大汝山”
・中義の立山の中央峰、3015m、富山県の最高地点
・大己貴神(別名:大国主命)が祀られていたことに由来する。
?立山曼陀羅図には祠が描かれているが、現在信仰をうかがわせるものはない。
◆“富士ノ降立”
・中義の立山の北峰、2999m
・富士権現を祀ったことに由来。富士ノ折戸 富士ノ折立岩とも記した。
・立山曼荼羅図では、雄山、大汝山、別山の山並みから奥まったところに富士山型に描かれる。
◆“別山”
・2880m
・帝釈天を祀るので、帝釈岳の別名があった。
・立山曼荼羅図では、雄山、大汝山、浄土山と並ぶ重要なピークである。
◆“浄土山”
・2831m
・阿弥陀堂や、天日鷲命と長白羽命を祀った祠の跡がある。
・高山植物やハイマツに覆われる山上の姿は立山三山随一。雷鳥の生息数も多い。
・このような環境を阿弥陀の浄土になぞられたことに由来する。